昭和四十五年七月十四日 朝の御理解
御理解第三十四節 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
初めの間は誰しも、そうだと思います。「先生は、ああ言いなさるけれども」と。それでも、おかげを段々受けて参りまして、神様のいうなら間違いなさが段々分かってくるようになると、神様の教えて下さる事を右左にする事は勿体なくなってくるし、段々神様のお言葉を本気で行じるようになってくる。神様の教えて下さった事を本気で行ずる、すぐそこに答えが自分の思うようになるという事じゃないのです。ですから、その辺のところが大事。神様の言う通りにさせて頂いたら、結果に於いては反対になったりするような事がある。そこからですねえ、神の言う通りにする者が少なくなって参ります。まあ、第一段階は、信心がよう分かりませんから、いうなら初めてお参りをして話を聞いた。なる程なる程、と合点する事ばかりだと。けれども、「そんな訳には、いかんもんね」というのが信心の初信の人の頂き方じゃないかと思う。ですから、それでもやはりおかげは受けます。おかげは受けますけれどもね、やはり神の一言は千両の金にもかえられない。「有り難く頂いて帰れば、土産は船にも車にも積めぬほどの神徳がある」とおっしゃる。神徳にはならない。
そこから段々、信心が分からしてもらうようになり、本当におかげを頂かせてもらうようになる。そこから、神様の教え通りに司りますという姿勢が段々出来てくるようになる。まあ、第二段階だと、こう思う。その第二段階の所の辺がですねえ、いうなら大変難しい所である。
昨日当たりの御理解の中から申しますと、神様の仰せ通りにさせて頂いておる、行じておる、教えにそれだけ忠実になっておるのにもかかわらずです、自分達の思うようなおかげにはなってはいないという。ところが、ここにもおっしゃっておられるように、「神の一言は、千両の金にもかえられぬ。有り難く受けて帰れば、船にも車にも積めぬ程しの神徳がある。」ですから、目には見えないけれども、その時こそ一生懸命、いうならば力を受けておる時であり、徳を受ける為のいわば段階がそこにある訳です。ですから、最もここの所を大事にしなければならんという事が分かるです。いうなれば、まあ、影の影、いうなら縁の下の力もち、なあにもなりよらんごたる感じ、只きついばかり、只一生懸命お参りをしておるばかり、という訳になりましょうかねえ。だから、この辺の所がですね、信心の第二段階だと思うです。この辺の所を一番大事にしなければならない。神様のおっしゃる通りにすれば間違いのないこんなおかげが受けられるというのは、まだそれは一段階をまだちょっと出たばかりのところです。二段階に入らせて頂くと、神様がいよいよ求め給うのが力なのです。いわゆる徳を受けられる力なのです。そこで神様が右とおっしゃるから右の通りにしましたけれど、左になりました。左とおっしゃるから左の事をしましたら、右の方になりましたといったような時、お参りも熱心にさせてもらう、そういう時に、いうならば縁の下の力もち、きついばっかり、おかげらしいおかげも頂かないけれど、信心がぐいぐい身についておる時、いうならいよいよ船にも車にも積めぬ程の神徳があるとおっしゃっる。その神徳を受ける為の力が養われておる時。ですから皆さん、そこん所をですね、皆さんも分かっておられると思うのですよ。今、合楽で一生懸命御修行があっておられる人達は、二段階の所に突入しておられる方達だと思うのです。それでも、例えば、自分の思うようにならないはしましてもです、神様のおかげをね、おかげと実感しなければおられないようなおかげの中にある時でもあります。いうなら難儀の中にあっても、有り難いなあという気持ちの開ける、いわば時でもあります。
「土産は、船にも車にも積めぬ程のおかげがある」とは、おっしゃってない。船にも車にも積めぬ程の神徳があるのじゃと。ですから信心の、ひとつの本当の願目を目指しての信心が地についてくる時、その信心がいよいよ身についてくる時であります。いわゆる、この辺の所を大事にしませんとですねえ、とうとう第三段階というところに入っていけないです。そこんところをです、いわば縁の下の力もち的な一生懸命、縁の下にある時に力を作っておく時であり、日の当たる場に出らせて頂いた時にはです、それこそ甘木の初代が小倉で御修行中、七年間ですかねえ、普通の先生方は半年やら一年位でどんどん修行を終えて教会を持たれる訳です。それは誰でも早く教師を志したからには、一時でも早く教会を持ちたいというのは、誰しも同じ事でしょう。ところが安武先生が違っておられたのはです、教会での私、教会での自分の立場というものをいつも考えておられた。「自分が、今、小倉の教会を出たら第一親先生がお困りになる。ようやく教会の内外共の事情を分かってきた自分が、今出る事は親先生が困られる、教会が困られる。自分の御用が出来るようなかわりが来るまでは辛抱しよう」と、まあ、それだけでもございませんでしたでしょうけれども、七年間も辛抱された。その間には、どれだけの新しい修行生が入って来ては出て、次々と教会を持たれる。そこんところにです、私が今日、言うております信心の第二段階、一番大事にしなければならない所を、いよいよ大事にしておられたという感じが致します。
いよいよ許されて甘木の地に布教に出られました。勿論、甘木という所は、右も左も分からない、全然未知の土地であったと言うておられます。二日市からどちらへ行ったら甘木かという事ですら知られなかったという。そして甘木の地に、いわゆる金光様の信心というものを知らない、いわゆる荒れ地布教ですねえ。布教に出られた。ところが人がどんどん助かるのです。もうあっという間に信者がたくさん出来た。そこである先生が桂先生におっしゃった。「甘木の安武さんは、どうしてあんなに甘木に出たばっかりで人が助かる御比礼を受けたんでしょうか。私共は布教に出て、もう何年にもなるけれど、それこそ教会が立つやら立たんやら分からん位な細々とした教会、やっとかっと維持しとるという人がほとんどであるのにもかかわらず、甘木の安武さんだけは、どうした事でしょうか」と言うて不思議がる位にあった。それで桂先生がおっしゃった。「安武はね、舞台裏の修行がしっかり出来ておったんだ」という意味の事をおっしゃった。いわゆる縁の下の力持ちの時代が長かった。その縁の下の力持ちの時代に本当の意味に於いての力を受けておったんだと。だからいうなら、お芝居でいうなら花道に出た途端に大向こうから「千両!」と声がかかるようなおかげを受けたのだとおっしゃったという事です。だから一段階から二段階のここのところが一番大事であるという事が皆さん分かります。そこんところをです、本当に目のつまった信心というのは、そういう時にさせて頂く。土産は船にも車にも積めぬ程のおかげではなくて、いわゆる、目には見えないけれども、ぐいぐい力を受けておられた時である。その間にどういう例えば、その七年間の修行辛抱の中に、信心の事が詳しゅうなられたという事もそうでしょう。力がつかれたといや、もうそれまでですが、その力の受けられるという事がです、神の一言を本当に千両の金にもかえられないとして受けられるその心というものがね、いわゆる盤石なものになっておった。完璧なものを目指しておられた。それはどういう事かと言うと、一番最後のところにありますようにね、心の内を改まる事が第一なりであり、「神に一心とは、迷いのない事ぞ」という一心を貫いておられたという事になる。 神に一心とは迷いがない事、それをいうなら七年間も貫かれた。その間にです、改まりに改まれた事であろう、研きに研かれた事であろう。ここのところがね、大事にされなければならんという事を、私はこの三十四節は一番頂かねばならないところじゃなかろうかと思います。
信心の味わいも二段階に入って、その二段階のところをです、厳密に又は忠実に信心の稽古に、又は改まる事に限りなく本当の玉を研いていく事に精進する時期である。縁の下の力持ちの時代に、そこんところを七年間の修行の間に、そこんところが出来られた。いうなら舞台裏の修行が出来られたところにです、さあ、五年たっても十年たっても道が開けんという教会がある中に、甘木の地に出られたら途端に、それこそ大向こうから「千両!」と声がかかるような御比礼を受けられた。もう何というても素晴らしい生きた手本だと思いますねえ、甘木の初代の生きられ方というのは・・・・・
先日、お参りさせて頂きました大阪の泉尾の教会でもやっぱりそうだと思います。 「咲くまでは、草と呼ばれる野菊かな」と。まあ、これは先生の信心の御信条でもあるらしい。厳密に言うと、現在でもそういうお気持ちではなかろうかという感じですねえ。もう本当に名実共に日本一と言われる程しの立派な教会長として、それこそ世界中を駆け回ってお道の布教をつとめておられる先生でありますが、それでもね、まあだあれは、ほんなもんじゃないと言う人達がたくさんあるという事。自分もそれを知っておられる。ですから、もうとにかくおかげを頂く以外にない、おかげを見せていく以外にない。それは合楽の場合もそれが言えれると思うのです。こうやっておかげを頂いて、なる程と合点して下さる人もあるけれども、「あれは大坪さんのふのよかつがの」という程度の人もたくさんあるという事。ですから、もっともっとこれがおかげを受けておるのか、ふがよいのか、そこんところを分かってもらう。分かってもらう事はいらんけれどもです、その気持ちをいつまでも雑草の気持ちを、やはり咲くまでは草と呼ばれておる、その草と呼ばれておる時代をです、大事にする。
これが本当なものだと自分で確信させて頂いたら、そこのところの信念にもとずいて、その信心に邁進させて頂くという訳であります。雑草と呼ばれておる間にいよいよ本当なもの、改良に改良を重ねる。いわゆる野菊ではなくて大きな花をつける程しの事に改良が出来ていきますよねえ。
信心のいわゆる第一段階、信心の第二段階、そこからです、私共が信心の第三段階というところ、いわゆる御神徳をもって示していくというところ、なる程、船にも車にも積めぬ程の神徳がある。そんならその第三段階に於いてです、お徳をもって示していけれる、世に向こうていけれるだけの信心というものがです、段々身についてくるようになりましてもです、そんなら振り返ってその信心を思うてみます時に、信心の限りない進展という事、信心の底のない事をです、感じとらせて頂いて、限りない一生が修行じゃとおっしゃる修行に取り組んでいく訳ですけれども、そういう私は信心を皆さんいよいよ身につけていって、「土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある」その神徳を受ける為に、いよいよ心の内を改める事、いよいよ神に一心とは迷いのない信心を本気で貫かせて頂くおかげを頂いていかなければならんと思います。
ここへ参っても神の言う通りにする者は少ない。神の言う通りにしないでもやはり、おかげを受けます。けれどもね、神の言う通りにさせてもらう信心修行が出来ませんと船にも車にも積めぬ程の神徳にはなりません。この辺のところで一生、金光様の信心頂きましたと言うて終わっている人がどの位あるか分かりません。第二段階を大事にしないからです。その第二段階をいよいよ大事にして、信心の味わいを味あわせて頂きながらです、船にも車にも積めぬ程の神徳を身に受けさせてもらうおかげを頂きたいもんだと思う。だからその第二段階の時こそがいよいよ、いうならば信心の暗い時代そこのところを信心の灯というか、光を求めての信心、それをいよいよ神徳を受けさせて頂く力を身につけていく時であり、いよいよ改まる事に、研く事に一心と迷いのない信心をさせて頂く時である。そこのところが貫かれて、そこのところが動きがないと神様が御覧になった時、初めて神様の御信用が頂けれる。そこには、いわゆる御神徳の世界、いわゆる第三段階の世界。この第三段階の世界というのは、泉尾の先生の在り方を頂くとです、おそらくは、これはまだ自分では本当なものだと思っておられます。けれども、人はまあだ、あれは本なもんじゃないという人の為にという訳ではないでしょうけれども、間違いないという確信と同時に、雑草であるという自覚というものをいよいよ強めていかれる。それは合楽の場合、私の場合でも同じ事が言えれる。「これでもか、これでもか」という神徳をですね、受けて神徳による助かりというものを、もっともっと偉大なものにしていくという事にです、心を定めて修行させて頂かねばならん。そこに又、限りない船にも車にも、いよいよ積めん程の神徳に触れていく事が出来ると思うのでございます。どうぞ。